医薬品開発と聞くと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。

「すぐに新しい薬ができて、病気が治る!」
そんな期待を抱く方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、その舞台裏には、一般の方にはなかなか見えにくい“誤解”が潜んでいることも少なくありません。

長年、医薬品開発の現場に携わってきた者として、実体験から見えてきた「真実」があります。
それは、華々しい成功の陰に隠された、地道な努力と数々の困難、そして時には厳しい現実です。

この記事では、医薬品開発の現場でよく耳にする代表的な誤解を5つ取り上げ、専門的な内容もできる限り分かりやすく、丁寧に紐解いていきます。
元開発者だからこそ語れるリアルな情報を通じて、医薬品開発の奥深さと、そこに関わる人々の想いの一端でも感じていただければ幸いです。

よくある誤解①:「治験はすぐに始められる」

「新しい薬の候補が見つかったのなら、すぐにでも治験を始められるのでは?」
そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、実際には、治験開始までには非常に長い準備期間と多くのステップが必要なのです。

治験開始までの長い準備期間

一つの薬の候補が「治験」という段階に進むまでには、まず基礎研究で有望な物質を見つけ出し、その後、動物や細胞を用いた「非臨床試験」で効果や安全性を徹底的に調べる必要があります。

この非臨床試験だけでも、通常3年から5年、場合によってはそれ以上の歳月を要します。
ここで良好な結果が得られて初めて、人での試験である治験の準備に入ることができるのです。

つまり、治験が始まるずっと前から、研究室では気の遠くなるような試行錯誤が繰り返されているのです。

倫理審査や規制の壁

治験は、参加してくださる方々の人権と安全を守ることが何よりも優先されます。
そのため、治験を開始する前には、必ず医療機関内に設置された「治験審査委員会(IRB)」という第三者機関による厳格な審査を受けなければなりません。

治験審査委員会では、治験計画が倫理的に問題ないか、科学的に妥当か、参加される方の不利益は最小限に抑えられているかなど、多角的な視点から慎重に審議されます。
この審査をクリアしなければ、治験を始めることはできません。

さらに、国が定めた「医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令(GCP省令)」という厳格なルールがあり、これらを遵守することも求められます。

GCP省令とは?
Good Clinical Practiceの略で、治験が倫理的、科学的に適正に実施されるための国際的な基準です。
日本では厚生労働省の省令として定められており、治験に関わる全ての人が守るべきルールです。

これらの審査や規制は、安全で有効な医薬品を開発するために不可欠なプロセスですが、クリアするためには多くの時間と労力が必要となります。

「待機」の裏にある膨大な作業

治験の準備段階では、患者さんに直接関わる部分以外にも、膨大な量の事務作業や調整作業が発生します。

例えば、以下のような準備が水面下で進められています。

  • 治験実施計画書(プロトコル)の作成と詳細なレビュー
  • 治験薬の準備、品質管理、供給体制の確立
  • 参加される方への説明同意文書の作成
  • データの収集方法や管理方法の計画
  • 治験を実施する医師やスタッフへの説明会の実施

これらの作業には、製薬企業だけでなく、実際に治験を行う医療機関の医師、看護師、薬剤師、治験コーディネーター(CRC)など、非常に多くの人々が関わっています。

また、治験薬の品質を担保するための分析機器の正確な動作検証(バリデーション)や校正(キャリブレーション)といった専門的な業務を担う企業も、この複雑な準備を支える重要な役割を果たしています。

例えば、医薬品分析装置の専門的な知見を活かし、大手製薬会社に対してもバリデーションサービスなどを提供している日本バリデーションテクノロジーズ株式会社(現・フィジオマキナ株式会社)のような企業は、開発の初期段階からデータの信頼性を高めるために貢献しています。
「治験が始まるのを待っている」ように見える期間も、実は多くの専門家が複雑な準備に奔走しているのです。

よくある誤解②:「新薬は必ずしも“画期的”」

「新薬」と聞くと、それまでの治療法を根本から変えるような、劇的な効果を持つ薬をイメージされるかもしれません。

もちろん、そのような画期的な新薬も存在しますが、全ての新薬が“画期的”なものばかりではないという現実も知っておく必要があります。

効果と安全性の“地道な積み上げ”

新しい薬が世に出るまでには、その「効果」と「安全性」を科学的に証明するための地道なデータの積み上げが不可欠です。

これは、基礎研究の段階から始まり、動物での非臨床試験、そして人での臨床試験(治験)へと、段階を踏んで慎重に進められます。
特に治験では、少数の健康な方からスタートし(第I相試験)、次に少数の患者さんで効果と安全性を確認し(第II相試験)、最終的に多くの患者さんで既存の治療法と比較する(第III相試験)というステップを踏みます。

この一つ一つのステップで、有効な投与量、適切な投与方法、そして起こりうる副作用などが詳細に検討され、そのデータが積み重ねられていくのです。
このプロセスには、数年から十数年という長い時間と、多くの人々の努力が費やされています。

「改良型医薬品」が担う重要な役割

新薬の中には、全く新しい作用メカニズムを持つ「画期的新薬」だけでなく、既存の薬を改良した「改良型医薬品」も多く存在します。

「なんだ、改良か」と少しがっかりされるかもしれませんが、この改良型医薬品も医療の進歩には欠かせない重要な役割を担っています。

例えば、以下のような改良が挙げられます。

  • 副作用の軽減:既存薬の課題であった副作用を少なくする。
  • 服用方法の改善:1日3回の服用が必要だった薬を1日1回にする。
  • 効果の持続性向上:より長く効果が続くようにする。
  • 特定の患者さんへの適合性向上:特定の遺伝子型を持つ患者さんにより効果が出やすいようにする。

これらの改良は、患者さんのQOL(生活の質)を大きく向上させたり、治療の選択肢を広げたりすることに繋がります。
地味に見えるかもしれませんが、医療現場では非常に歓迎される進歩なのです。

希少疾患と画期性のジレンマ

患者さんの数が非常に少ない「希少疾患(オーファンドラッグの対象疾患など)」の治療薬開発は、また別の側面を持っています。

希少疾患の薬は、患者数が少ないために大規模な臨床試験が難しく、開発コストの回収も困難という大きなハードルがあります。
そのため、必ずしも既存の治療法と比較して「圧倒的に画期的」でなくても、他に有効な治療法がない場合や、既存治療に比べて少しでもメリット(例えば、生存期間の延長、症状の緩和など)が期待できるのであれば、その開発意義は非常に大きいと判断されます。

国も、このような希少疾患治療薬の開発を促進するための支援制度を設けています。
「画期性」の定義は、疾患の状況やアンメットメディカルニーズ(未だ満たされていない医療ニーズ)の高さによっても変わってくるのです。

よくある誤解③:「失敗=無意味だった」

医薬品開発の道のりは険しく、多くの候補物質が途中で開発中止となります。
その成功率は、数千から数万分の一とも言われています。

「開発に失敗したのなら、それまでの時間もお金も全て無駄だったのでは?」
そう考えてしまうのも無理はありません。

しかし、臨床試験の“失敗”が、必ずしも“無意味”を意味するわけではないのです。

臨床試験の“失敗”が次の成功を導く

臨床試験で期待された効果が確認できなかったり、予期せぬ安全性の問題が見つかったりした場合、その薬の開発は中止されることがあります。
これは開発に携わる者にとって、非常につらく、厳しい結果です。

しかし、その「失敗」から得られるデータや知見は、次の成功への貴重な道しるべとなります。

  • なぜ効果が出なかったのか?
  • どのような患者さんには効果が見られ、どのような患者さんには見られなかったのか?
  • 予期せぬ副作用の原因は何だったのか?

これらの情報を徹底的に分析することで、同じ過ちを繰り返さないための教訓が得られたり、新たな作用メカニズムのヒントが見つかったりすることがあります。

データの価値と「否定の科学」

医薬品開発は、仮説を立て、それを検証していく科学的なプロセスです。
「この物質は、この病気に効くはずだ」という仮説を立て、それを臨床試験で検証します。

その結果、仮説が否定されること、つまり「効果がなかった」「安全ではなかった」という結論に至ることも、科学の進歩においては非常に重要な意味を持ちます。
これを「否定の科学」と呼ぶこともあります。

うまくいかなかったというデータもまた、科学的な真実の一側面を示しており、将来の医薬品開発において、より有望な候補物質にリソースを集中させたり、別の角度からのアプローチを試みたりするための根拠となるのです。

失敗から学ぶ具体例

失敗の種類得られる知見の例次への活用
効果が不十分ターゲットとした分子が疾患にあまり関与していなかった可能性新たなターゲット分子の探索、より作用の強い化合物の探索
安全性に問題あり特定の副作用メカニズムの解明副作用を回避できる構造の設計、副作用が出にくい患者層の特定
既存薬との差別化不足既存治療法の限界と新たなニーズの明確化より革新的な作用機序を持つ薬剤の開発、アンメットメディカルニーズへの挑戦

このように、一つ一つの「失敗」は、次のステップへの貴重な財産となるのです。

現場で学んだ“敗北からの知見”

私自身も、開発中止という苦い経験を何度もしてきました。
その度に、大きな失望感と共に、多くのことを学びました。

それは、データだけでは読み取れない、現場の医師や患者さんの声、そしてチームメンバーの努力と葛藤です。
たとえ薬として世に出ることが叶わなくても、その過程で得られた知識、技術、そして何よりも「諦めない心」は、次の挑戦への大きな力となりました。

開発中止となったプロジェクトで得られた化合物ライブラリーや、特定の疾患に関する深い理解は、形を変えて別のプロジェクトで活かされることも少なくありません。
まさに、“敗北からの知見”が未来を拓くのです。

よくある誤解④:「すべての副作用は予測可能」

「薬には副作用がつきもの」ということは、多くの方がご存知かと思います。
そして、「開発段階でしっかり調べているのだから、どんな副作用が出るかは事前に分かっているはず」と思われるかもしれません。

しかし、残念ながら、すべての副作用を事前に予測し、完全に把握することは非常に困難なのです。

副作用の発見はいつも“予測どおり”ではない

医薬品の開発段階では、動物を用いた非臨床試験や、限られた人数の患者さんを対象とした臨床試験(治験)を通じて、副作用の情報を収集し、そのリスクを評価します。

しかし、これらの試験で確認できる副作用には限界があります。

1. 頻度の低い副作用は見つかりにくい
臨床試験の参加者数は、数百人から数千人規模が一般的です。
そのため、例えば1万人に1人、あるいはそれ以下の頻度でしか現れないような稀な副作用は、販売開始前の段階では見つけ出すことが非常に困難です。

2. 長期間使用して初めて現れる副作用もある
臨床試験の期間は、数ヶ月から数年程度です。
しかし、薬によっては、もっと長期間(例えば5年、10年)使用し続けて初めて明らかになる副作用も存在します。

3. 多様な患者背景での影響は未知数
臨床試験では、参加できる患者さんの条件(年齢、合併症の有無など)がある程度限定されています。
しかし、実際に薬が販売されると、より多様な背景を持つ患者さんが使用することになります。
そのため、臨床試験では現れなかった副作用が、販売後に見つかることがあります。

希少なケースとその影響

人の体質は一人ひとり異なり、薬に対する反応も様々です。
特定の遺伝的背景を持つ人や、特異なアレルギー体質の人にだけ、予期せぬ重い副作用が現れることもあります。

また、複数の薬を同時に服用している場合、薬同士が相互に影響し合い(薬物相互作用)、単独で使用した場合には見られなかった副作用を引き起こす可能性も考慮しなければなりません。
これらの希少なケースをすべて事前に予測することは、現在の科学技術をもってしても極めて難しいのが現状です。

「薬を飲む前は、必ず医師や薬剤師に、現在服用中の薬やアレルギー歴を伝えましょう。」
これは、予測しきれない副作用のリスクを少しでも減らすための、非常に重要なコミュニケーションです。

現場でのリアルな“対応力”

では、予測できなかった副作用に対して、医療現場や製薬企業はどう対応しているのでしょうか。

医薬品が販売された後も、製薬企業には「市販後調査(PMS: Post Marketing Surveillance)」という、副作用情報をはじめとする医薬品の情報を収集・評価し続ける義務があります。
医療機関からも、実際に薬を使用した患者さんに見られた副作用の情報が報告されます。

これらの情報を集約・分析し、新たな重大な副作用が発見された場合や、特定の副作用の頻度が予想以上に高いと判断された場合には、速やかに以下のような対応が取られます。

  • 医療関係者や患者さんへの情報提供(緊急安全性情報、添付文書の改訂など)
  • 必要に応じて、使用上の注意の変更や追加
  • 場合によっては、販売中止や自主回収

このように、医薬品は販売された後も、常に監視され、より安全に使用するための情報が更新され続けています。
現場の医師や薬剤師は、これらの最新情報を常に把握し、個々の患者さんの状態に合わせて、きめ細やかな対応を行っているのです。

よくある誤解⑤:「薬ができれば終わり」

長い年月と莫大な費用をかけて、ようやく新しい薬が国から承認され、販売開始へ。
開発に携わった者にとっては、まさに感無量の一瞬です。

「これでようやく一安心、開発は終わりだ」
そう思いたくなる気持ちも分かります。

しかし、医薬品開発の道のりは、薬が承認された後も続いていくのです。
むしろ、ここからが新たなスタートと言えるかもしれません。

承認後に待ち受ける“使用実態”とのギャップ

臨床試験(治験)は、薬の有効性と安全性を確認するために、管理された条件下で行われます。
参加する患者さんの選択基準も比較的厳格で、他の病気を合併している方や、多くの薬を併用している方は除外されることも少なくありません。

しかし、実際に薬が販売され、一般の医療現場で使われるようになると、臨床試験のデータだけでは見えてこなかった様々な課題や疑問点が明らかになってきます。

  • 臨床試験では対象外だった高齢者や小児への効果や安全性はどうか?
  • 複数の持病を持つ患者さんが使った場合、影響はないか?
  • 他の薬との飲み合わせで、予期せぬ問題は起きないか?
  • 長期間使い続けた場合の、さらなる効果や副作用は?

これらは、実際の医療現場(リアルワールド)で多くの患者さんに使われて初めて、データとして集積され、評価されていく情報です。
承認された時点では、まだ薬の全てが分かっているわけではないのです。

医師・患者とのコミュニケーションの重要性

新しく承認された薬が、本当に患者さんの治療に役立ち、安全に使われるためには、医療従事者と患者さんとの間の丁寧なコミュニケーションが不可欠です。

医師や薬剤師は、患者さん一人ひとりの状態を把握した上で、
「この薬には、どのような効果が期待できるのか」
「どのような副作用に注意すべきか」
「正しい使い方はどうすればよいのか」
といった情報を、分かりやすく伝える責任があります。

同時に、患者さん自身も、薬を使っていて何か気になること(期待した効果が出ない、いつもと違う体調の変化を感じるなど)があれば、遠慮なく医師や薬剤師に相談することが大切です。
この双方向のコミュニケーションを通じて、薬はより適切に使われ、万が一の副作用にも早期に対応することができます。

「売れる薬」と「使われる薬」の違い、「育薬」の概念

製薬企業にとって、開発した薬が多くの医療機関で採用され、売上を上げることはもちろん重要です。
しかし、それ以上に大切なのは、その薬が実際に患者さんの治療に貢献し、医療現場で真に「使われる薬」となることです。

そのためには、販売開始後も、薬に関する情報を収集・評価し、医療現場に適切な情報を提供し続ける活動が欠かせません。
この、薬をより安全で有効なものへと「育てていく」活動を、私たちは「育薬(いくやく)」と呼んでいます。

育薬の具体的な活動例

  • 市販直後調査:販売開始から一定期間、特に重点的に副作用情報を収集する。
  • 使用成績調査:特定の患者集団における有効性・安全性を長期間追跡する。
  • 製造販売後臨床試験:新たな効果の検証や、より良い使い方を見つけるための臨床試験。
  • 医療従事者への情報提供:学会発表、論文投稿、説明会開催などを通じて最新情報を提供。
  • 患者さん向け資材の作成:薬の正しい使い方や副作用について分かりやすく解説したパンフレットなどを作成。

これらの地道な育薬活動を通じて、薬の隠れた価値が見出されたり(例えば、当初とは異なる疾患への効果が発見されるなど)、より安全な使い方が確立されたりすることで、薬は真に医療に貢献できる存在へと成長していくのです。
「薬ができれば終わり」ではなく、むしろそこからが、薬の価値を最大化するための新たなスタートなのです。

まとめ

これまで、医薬品開発の現場でよく聞かれる5つの誤解について、私の経験も交えながら解説してきました。

医薬品開発は、
「治験はすぐに始められる」わけではなく、
「新薬が必ずしも画期的」とは限らず、
「失敗が決して無意味」ではなく、
「すべての副作用が予測可能」なわけでもなく、
そして「薬ができれば終わり」でもありません。

その舞台裏には、長い時間と膨大な労力、そして多くの人々の知恵と情熱が注がれています。
成功の陰には数えきれないほどの試行錯誤があり、一つの薬が患者さんの元に届くまでには、様々なハードルを乗り越えなければなりません。

経験者だからこそ伝えられるのは、そのプロセスの複雑さと、時に直面する厳しい現実の重みです。
しかし、それと同時に、困難な状況下でも諦めずに新しい治療法を追求し続ける研究者や医療従事者の姿、そして治験に協力してくださる患者さんの勇気と希望も目の当たりにしてきました。

医薬品開発は、まさに「希望の技術」であると同時に、その恩恵を誰に届けるかという「冷酷な選別の場」にもなり得ます。
その狭間で、多くの人々が真摯に努力を続けているということを、少しでもご理解いただけたなら幸いです。

この記事を読んでくださった皆さんが、医薬品開発の現実を少しでも身近に感じ、そしてご自身やご家族が薬と向き合う際に、何か一つでも考えるきっかけを得られたとしたら、元開発者としてこれほどうれしいことはありません。

医薬品開発を単なる“夢物語”で終わらせないために、私たち一人ひとりが正しい知識を持ち、建設的な視点を持つことが、より良い医療の未来に繋がっていくと信じています。

最終更新日 2025年5月19日

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